東京家庭裁判所 昭和48年(家)13855号 審判 1974年3月29日
申立人 原口恵(仮名)
相手方 原口浩司(仮名)
主文
当事者双方が別居解消または離婚に至るまで、当事者間の長女千恵子(昭和四四年一〇月二日生)を監護すべき者を母である申立人と定める。
相手方は申立人に対し長女千恵子を引き渡せ。
前項の引渡しがなされたのち、申立人は当庁家庭裁判所調査官の指導助言のもとに、相手方と千恵子との面接交渉を認めなければならない。
理由
本件申立の要旨は「申立人と相手方とは昭和四〇年二月二三日婚姻した夫婦であり、昭和四四年一〇月二日長女千恵子が出生したところ、昭和四七年八月一七日申立人は千恵子を相手方のもとに残したまま申立人の肩書住所たる実家に帰されてしまい、爾来相手方は申立人が千恵子に会うことをも拒否して今日に至つているが、幼児たる千恵子は生母たる申立人がその養育監護に当ることが最適であるから、子の監護に関する処分として然るべき審判を求める。」というのである。
これに対し相手方は「相手方と申立人との婚姻は既に破綻し、申立人は事件本人を相手方のもとに置き去りにして実家に帰つたもので、長女千恵子は昭和四七年八月以来父である相手方の監護のもとに安定した生活を送つており、申立人が千恵子に面接することは、いたずらに幼児を紛争に巻きこみ、心理的悪影響を及ぼすことが明らかであるから、このまま相手方の監護のもとに置くことが相当である。」と主張する。
よつて審按するに、後記各調停事件記録および右調停事件ならびに本件における家庭裁判所調査官の調査報告書、双方当事者審問の結果を総合すると、以下の各事実が認められる。
〔本件の事実関係〕
相手方と申立人とは昭和三五年に見合いのうえ婚約、結納まで交したが、相手方からの病気を理由とする申入れにより一応破談とし、昭和三九年秋に再び婚約、昭和三九年一二月一七日結婚式を挙げ、相手方の肩書住所で同居し、昭和四〇年二月二三日婚姻の届出を経たものである。結婚の仲介者は申立人の母松代の姉田中和枝であり、同人の亡夫は相手方の祖母よね(相手方の母雅の実母)のいとこであつて、当事者双方の両親らは以前から知合いの間柄であつた。
相手方は父原口洋吉(婿養子)、母雅の二男であるが、長兄は幼死したので、家業たる質屋(有限会社原口本店)を継承すべき立場にあり、慶応義塾大学付属高等学校を卒業後、大学へは進学せず、父を助けて家業に従事し、昭和四二年六月に父が死亡してから有限会社原口本店の代表取締役になつた。
申立人は父井上勇之助、母松代の長女(一人娘)であり(後記のとおり弟二人がある)、昭和三〇年三月青山学院女子短期大学家政科を卒業したのち、相手方と結婚するまで、父の営む女子学生服製造業の手伝いをしていた。
相手方と申立人とは結婚式に引き続き紀州方面に五泊六日の新婚旅行に行つたが、その間に性交渉を持たず、帰宅後も二階の八畳間に共に寝起きしながら全く肉体の関係がなかった。相手方の家族は父洋吉(当時六七歳)、母雅(同五七歳)、弟進一(同二七歳)、妹美江子(同二四歳)、祖母よね(同七四歳)であり、相手方と申立人を含め七人の世帯であつた。一家の家計は母雅が担当し、複雑な家族構成と質屋という家業の特殊性のもとで、夫婦の語らいというようなものも十分ではなかつた。結婚後約半年のころ、申立人は相手方との性関係のないことを仲人田中和江に訴え、同人の斡旋で夫婦は箱根にある田中のマンションで二人だけの生活を一週間ばかりしたが、この間にも性関係は生じなかつた。昭和四二年六月相手方の父洋吉が癌で死亡してからは、それまでの家庭のまとめ役がなくなつたため、母雅と申立人との間に感情の行違いを生ずることが多くなり、相手方は雅との結び付きが強く、申立人は一家の中で孤立し、ただ祖母よねだけがやや申立人を理解してくれる立場にあつたそして昭和四三年中ころ申立人はよねから子供のことを尋ねられた機会に、相手方との性関係のないことを打ち明けたが、同年夏ころからようやく夫婦の関係が生じ、まもなく申立人は懐妊、昭和四四年一〇月二日長女千恵子が出生した。しかし、申立人の懐妊後は再び夫婦関係は絶え、出産後は寝室も別にするようになつて、夫婦は疎遠の度を加えた。父洋吉の生前から家付娘として一家の中心をなしてきた母雅との関係を含め、相手方には申立人を理解し問題を解決しようとする態度が欠けていた。同時に、申立人の内攻的な性格とややヒステリックな言動が相手方や相手方の家族との離間を生ぜしめる原因でもあつた。
昭和四七年八月一七日夕刻、雅が千恵子を入浴させているとき、よねが長湯をさせないようにと注意したのに雅がじやけんな態度で返答したことに対し、申立人がよねの肩を持つ発言をしたことがきつかけで雅と申立人との口論になり、雅が申立人と相手方との結婚のいきさつについて申立人の感情を刺激するようなことを述べたので、申立人は夕食も摂らず相手方宅を出て渋谷区桜ケ丘町のマンションに仲人田中和枝を訪ねた。しかし田中は不在であつたため実家に電話して田中の所在を確めたところ、その間に相手方宅から申立人の実家に電話があり、申立人を実家のほうに泊めてくれとのことであつたから、申立人は同夜は申立人肩書住所の実家に行つて泊つた。
翌一八日、連絡により田中が申立人の実家に来て事情を聴取し、とにかく申立人に相手方のもとへ戻るようにとすすめ、同日夕刻申立人は相手方宅に戻つた。申立人が玄関を入ると、丁度食事をしていた相手方が「何しに帰つて来た」といい、階段を上ろうとする申立人を押しとどめ、はげしいけんまくで「実家に帰つていろ」と申し向け、雅とともに申立人に罵言をあびせた。申立人は、とりあえず居室から着替えの一部を持ち出して階下に降り、階下の部屋にいる筈の長女千恵子に「ママ行くわよ」と声をかけたが、雅や妹美江子らが立ちふさがつているため姿の見えないまま、玄関を出ると、相手方が内側から門の鍵をかけた。申立人によると、「浪の花、浪の花」という声が背後で聞こえた。
同夜、雅は田中へ電話し、同人に来てくれるよう申し入れたが、その際「子供は絶対に渡さない、自分のほうで育てる」との趣旨を述べた。その後、田中のほうから相手方側が申立人方に来て話し合うよう求めたが、相手方側はこれに応ぜず、双方対立のまま推移した。
〔調停および審判の申立とその経過〕
申立人は昭和四七年九月二六日東京家庭裁判所に相手方との夫婦関係調整を求める調停の申立をした(同庁昭和四七年家(イ)第六一〇三号事件)。その申立書は申立人自身が書いたものであるが、申立の趣旨は「当事者間の紛争を解決し双方の満足し得る条件の下に円満な家庭生活を営めるよう調停を求める」というのである。事件は家庭裁判所調査官の事前調査に付されたが、調査官との面接において申立人は長女千恵子のためにもう一度やり直したいと述べたのに対し、相手方は申立人と離婚をしたいとの趣旨を述べている。
昭和四七年一二月二六日午前一〇時調停委員会の第一回調停期日に相手方は暮で忙しいからと電話で連絡してきて出席しなかつた。申立人は調停委員会に対し相手方が承知してくれないなら離婚もやむをえないが、子供は引き取りたいと述べ、とにかく子供に会えるようにして貰いたいと訴えた。昭和四八年二月九日午後一時の第二回期日に申立人は母松代とともに出頭し、相手方本人も出頭したが、相手方は離婚の線を主張、同年三月七日午前一〇時の期日には相手方の母雅出頭し、子供は当方になついているから申立人には渡せないと主張した。
昭和四八年三月二七日相手方(浩司)が申立人となり、申立人(恵)との離婚を求める趣旨の調停申立をした(当庁昭和四八年家(イ)第一七八三号事件)。その申立の実情は、「(恵は)子供に対する愛情は無く家庭をも顧みず子供を置き去りにし余りにも身勝手に何度も家を空け今回も子供を押しつけて長い間にわたり連絡の電話も無く」「子供は私の手許で立派に養育し成人させ夫婦間の解消を決心した」というのである。
前記両事件の同年四月六日午前一〇時の調停期日に、双方当事者のほか相手方の母雅も出席、離婚を前提とし、親権者を母である申立人とすること、養育料や財産分与の額をきめることの方向での話合いがなされ、次回に申立人の母を再度出席させることになつた。同年五月四日相手方は弁護士中村光彦を、同月七日申立人は弁護士高嶋得之を、それぞれ代理人に選任、同年五月七日午後一時の調停期日には相手方代理人から代理人の差支えを理由に変更申請があり、相手方も代理人も出頭せず、同年五月三〇日午前一〇時の調停期日に双方本人と双方代理人が出頭、その際相手方から子供の引渡しはできない、申立人は子供の親権者として不十分であるとの主張があり、申立人は幼稚園の関係からも早急に千恵子の引渡しを求める旨主張した。同年六月二〇日午後二時の期日に申立人側から子の親権者については裁判所の調査によりきめて貰いたいとの希望表明があり、相手方側は代理人のみが出頭したが、子供は渡せぬとの主張を維持、同年七月一八日午前一〇時の期日に双方本人と各代理人が出頭、双方代理人からそれぞれ書面に基づく事実関係の陳述がなされた。
かくて長女千恵子の親権者決定、監護の方法に関し家庭裁判所調査官への調査下命がなされ、当庁家庭裁判所調査官大須賀朝子は同年八月七日相手方宅、同月一七日申立人宅にそれぞれ出張して諸般の調査を行つた。調査の結果によれば、申立人の実家たる申立人の肩書住所の住居は閑静な住宅地にあり、申立人の父勇之助(昭和四七年一〇月当時七一歳)、母松代(同六一歳)と申立人の三人家族のわりには十分の広さであること、申立人の父母ともに申立人が長女千恵子を引き取つて同居することに賛意を表していること、父勇之助は中央区八重州に店を持ち女子学生服の製造業を営んでおり、申立人の弟たる長男勇一(同三五歳)は渋谷区に居住して父の店の手伝いをし、同じく二男哲男(同三二歳)は会社員として千葉県流山市に居住していること、申立人の父母は申立人の内攻的な性格と異なり外向的、陽性、明朗な性格であつて、千恵子にとつてマイナスのイメージを抱かせていることはないと推測されること、一方、相手方の家庭の状況は前段までに認定したとおりであり、相手方の家族は千恵子を手許で養育することを主張していること、相手方の肩書住所たる住居の環境その他諸般の情況を総合して比較した場合、千恵子の養育環境としてどちらがよいかということは一概に結論づけることはできないが、総じて千恵子の監護者は母である申立人のほうが望ましいと結論され、千恵子が一年余のブランクののちに母である申立人をどのようにイメージしているかが問題であるから、申立人と千恵子との面接を実現することが今後の解決方針をたてるために急務であるとされた。
同年八月二〇日午後一時の調停期日において調停委員会は申立人と長女との面接を速やかに実現すべく、次回期日に長女を同行するよう相手方に要望し、問年九月一日午前一〇時の期日を指定したところ、右期日には相手方本人は出頭せず、代理人のみが出頭し、子供を連れてくることはできないから調停を不調にして貰いたいとの意向表明があり、申立人は長女との面接を切望し、申立人代理人は早急の審判を求める旨主張、更に九月五日午前一〇時の期日に続行となり、双方本人と代理人の間で長女と申立人との面接交渉の話合がなされ、次回に申立人側は出頭しないことの条件のもとに相手方は長女を裁判所に同行することとし、九月一二日午前一一時の期日に相手方は長女千恵子を連れて出頭した。右期日に担当の調停委員両名が千恵子に面接して観察したうえ、相手方および相手方の母雅に対し千恵子と申立人との面接を説得したところ、一応その方向での諒解がなされたと見えた。
しかし同年九月二六日午前一〇時の期日に相手方本人は出頭せず、代理人のみ出頭、申立人代理人は審判による解決を再度要望したが、家事審判法二四条の審判では実効性がないとの考慮から、他の法的手段を検討するとして調停事件の進行保留を求めた。
かくて申立人代理人は同年一〇月三〇日東京地方裁判所に相手方を被告として離婚並びに親権等請求の訴(同庁昭和四八年(タ)第四四九号事件)を提起するとともに、同年一一月二六日本件子の監護に関する処分の審判申立および婚姻費用請求の審判申立(当庁昭和四八年(家)第一三八五一号事件)をした。
右各審判事件の審問期日は昭和四八年一二月一五日午前一一時に開かれたが、相手方本人は出頭せず、代理人のみが出頭し、申立人本人の審問が行われた。昭和四九年一月二八日午後三時の審問期日には相手方本人が出頭したが、その審問において相手方は申立人が長女千恵子に面接することを絶対的に拒否しているわけではないとの趣旨の陳述をしたが、ただ突然に訪ねて千恵子を動揺させて貰つては困ると述べ、具体的な提案には至らなかつた。右審判事件の進行中調査として家庭裁判所調査官大須賀朝子は同年三月五日相手方宅に出張し、長女千恵子および相手方の祖母よねに面接し、若干のテストを実施すると共に事情聴取を行つた。千恵子についてのテストの結果では、千恵子は二歳一〇か月で母である申立人と別れているのであるから、果して実母を念頭において反応しているかどうかは疑問であるとしつつも、母親の果たす役割、家庭の中の位置について適確な理解が示されており、母はいつも要求を受け入れてくれ、依存できる存在であるとみていること、母には従順であり、特に悪い印象は持たず、反抗心および分離不安はないこと、父に対しては依存欲求を満たしてくれ、甘い父として親近感をもつていること、従順で自己主張や反抗することがなく、大人の要求をすぐ受け入れる解決方法をとろうとするが、ごく親しい人たちとの間、あるいは自分が最も興味ある場面では自己主張もできる状態であるので、抑圧によつて病的状態に向うという心配はないものと思われること、などが認められるとされている。祖母よね(当八五歳)は多少耳が遠いが顔の色つやもよく健康であり、千恵子に対しては無条件の愛情を持ち、千恵子のよい遊び相手であるとともに、千恵子の存在そのものがよねの生き甲斐になつていることが十分うかがえる。そして同調査官の所見としては、千恵子が父である相手方の家庭のなかで居心地が悪いとか不適応を起こしているとは言えないから、千恵子の生活状況を今すぐ変更しなければならないという緊急性はないが、前回の調査でも触れたように、母である申立人の実家と父である相手方の実家とでは千恵子の性格形成のうえから見るならば申立人方のほうがよりよい条件を備えているとは言えるし、千恵子がゆがんだ母親像を抱いているというわけではないので、うまく母である申立人と接触できる機会が与えられるなら、また父である相手方も、その機会を賢く利用することができるなら、そのことが千恵子の成長にプラスするのではないか、としている。
昭和四九年三月一五日午後一時の審問期日において、相手方代理人から、相手方は申立人の前記離婚等請求の訴に対し、離婚等請求の反訴(東京地方裁判所昭和四九年(タ)第三七号事件)を提起したことが報告され、同年三月一八日、調停委員会は前掲各調停事件につき合意が成立する見込みがないものとして事件を終了させた。
〔当裁判所の判断〕
父母が協議上の離婚をするときは、子の監護をすべき者その他監護について必要な事項は、その協議でこれを定め、協議が調わないとき、又は協議をすることができないときは、家庭裁判所が、これを定めることになる(民法七六六条一項)。しかし、父母が離婚に至らない場合でも、夫婦関係が破綻し、子の監護についての協議ができない状況のもとにおいては、前記法条の準用により、同様に家庭裁判所が、これを定めるべきものと解される。
本件においては、当事者間の長女千恵子につき母である申立人は昭和四七年九月の夫婦関係調整調停の申立以来、一貫して夫婦同居の回復または千恵子の引取り養育を主張しており、調停委員会においてもとりあえず平穏裡に申立人が千恵子と面接する機会を作るべく説得勧告につとめたが、千恵子を夫婦の紛争に巻きこみたくないとか動揺を与えたくないという相手方の拒否によつて、昭和四七年八月以来一年七か月にわたりその実現ができないままに推移した。何と言つても千恵子は現在四歳五か月の幼児であり、時間の経過とともにますます母親イメージを喪失し現状固定の情況が強化されることは容易に推認できる。そして父である相手方のもとにおいて、母にかわる相手方の母雅、同祖母よねに母親像を見ながら一応の安定に至つていることも前記調査結果から着取しうるところである。
しかしながら前認定の事情に徴するときは、申立人が相手方のもとを去つたのは相手方の主張するように申立人が「子供を置き去りにし」「子供を(相手方に)押しつけ」たわけではないことが明らかであり、申立人は「千恵子を棄てていき、会いにもこないし、電話もしてこない」のではなく、相手方側がこれを拒んできたのである。そして前掲調査結果によれば母である申立人側に子の引取り養育について支障となる要因は見出せないだけでなく、幼児である千恵子の監護者は母である申立人のほうが望ましいのである。もちろん一年七か月の空白ののちにおいて千恵子を母である申立人のもとに移すことは、一時的に精神的動揺を与えることにもなろうし、調査官もいうように、千恵子の生活状況を今すぐ変更しなければならないという緊急性はないであろう。(したがつて相手方が千恵子を監護していることが人身保護法および同規則にいう拘束にあたるものではない)。だからといつて、母である申立人との別離を強いられた千恵子の現状を固定することが、同人の幸福であるとすることはできない。近時実力で子を奪取する事件が散見されるのは家庭裁判所ないし調停委員会が子の現在の生活状況の変更を避けようとする微温的態度をとり、かつ、その審理ないし調整に長期間を費すことにもよると思われる。
以上の次第で当裁判所は、当事者双方が離婚または同居に至るまで当事者間の長女千恵子を監護すべき者を母である申立人と定め、相手方に対し千恵子を申立人に引き渡すことを命ずるとともに、申立人が千恵子と父である相手方との面接交渉を認めること及びこれにつき家事審判親則七条の五、一三四条の四に基づき当庁家庭裁判所調査官の指導助言を受けうるものと定めることを相当と認める。
(家事審判官 田中恒朗)